野村学芸財団の設立者である野村長一(おさかず)は、「野村胡堂」と「あらえびす」のふたつのペンネームを持っていました。
胡堂のペンネームはおもに小説や随筆に用いられました。胡堂の「胡」は中国の西域に住んでいた騎馬民族であり、胡堂が東北出身であることにちなんでつけたものです。「堂」は店名や雅号などにつける接尾語です。
胡堂は若くして文学に目覚め、盛岡中学の在学時にすでに回覧雑誌を手がけていましたが、新聞社勤務の傍らで本格的に小説の執筆を開始したのは40歳の頃でした。代表作である『銭形平次捕物控』の第一作を著したのは50歳近くのことで、それから27年間にわたって383編もの物語が生みだされました。主人公の銭形平次には、心ならずも罪を犯してしまった善人は見逃してやる優しさがあり、それも人気の一因でした。「わが平次は十中七八まで罪人を許し、あべこべに偽善者を罰したりする。近代法の精神は『行為を罰して動機を罰しない』が、銭形平次はその動機にまで立ち入って、偽善と不義を罰する」と胡堂は語っています。吉田茂首相や司馬遼太郎など、多くの著名人もそんな銭形平次の愛読者でした。
もうひとつのペンネームの「あらえびす」は、おもに音楽評論などで使用されました。あらえびすは昔の東北人の呼称であり、古くは吉田兼好の『徒然草』でも用いられています。あらえびす名義の代表作のひとつである『名曲決定版』は、1939(昭和14)年の刊行以来、繰り返し再版されました。中公文庫版は1981年の発行です。
野村胡堂
文筆活動
人物像
野村胡堂は父親の破産などがあって結婚後しばらくは経済的に苦労しましたが、妻のハナは明るく家計をやりくりしました。後に胡堂が人気作家となってからも、野村家は質素な生活を続けました。
ソニーの創業者で、野村学芸財団の理事長を長くつとめた井深大は、『野村学芸財団会報』第8号に掲載された「十周年記念号に寄せて」という文章で、胡堂の人物像を以下のように述べています。
胡堂には幅広い交友関係がありましたが、特に盛岡中学の同期の金田一京助とは生涯にわたって深い交流がありました。野村学芸財団設立の2か月後、胡堂が病に伏すと、金田一は見舞いに訪れました。そのときのことを金田一は胡堂への弔辞で次のように語っています。
「一億の大金」のニュースとは野村学芸財団の設立を指しています。金田一の訪問の翌日の4月14日、胡堂は80歳でこの世を去りました。
ソニーの創業者で、野村学芸財団の理事長を長くつとめた井深大は、『野村学芸財団会報』第8号に掲載された「十周年記念号に寄せて」という文章で、胡堂の人物像を以下のように述べています。
野村さんは暖い善意の、人情のかたまりの様な人であり、しかも東西に渉る、それもあらゆる芸術分野に於て専門家として通用する該博な知識の持ち主で、昭和初期日本の音楽普及の相当大きな部分が、野村あらえびすのレコード評論によって育てられたと云っても過言ではないだろう。バッハとロダンと北斎と捕物帳と推埋小説が渾然一体となった人とでも表現すればよいかも知れぬが未だ云い足りないような気もする。
胡堂には幅広い交友関係がありましたが、特に盛岡中学の同期の金田一京助とは生涯にわたって深い交流がありました。野村学芸財団設立の2か月後、胡堂が病に伏すと、金田一は見舞いに訪れました。そのときのことを金田一は胡堂への弔辞で次のように語っています。
「どうもご無沙汰ばっかり・・・・・すみません。でもあなたはいつでも随筆でもお話でも私のことにふれますといつも昔ながらの友情であたたかにかばって下さいますのを心から感謝しながらまだお目にかかってお礼を申しませんでした。今日は一杯ためて参りました。どうも本当に本当に有り難う」とそう申しましたら、胡堂さん、あなたは握手の手を少し締めて応えて下さいました。私がまた「一億の大金を世の為に投げ出されたニュース、さすがに、あなたでした。同郷の私たちも肩身が広う感じます」と申しましたらお顔が少し動きました。
「一億の大金」のニュースとは野村学芸財団の設立を指しています。金田一の訪問の翌日の4月14日、胡堂は80歳でこの世を去りました。
ハナ夫人
胡堂の妻のハナは胡堂と同郷です。相思相愛の仲を10年以上続けた末に結婚したのは、胡堂が東京帝大に、ハナが日本女子大に在学中のことでした。結婚後まもなくハナは日本女子大を卒業し、1915年から28年までは日本女子大附属高等女学校の教員をつとめました。銭形平次の妻のお静のモデルであるとも言われています。ハナは胡堂の存命中は胡堂を支え続け、胡堂亡き後はその遺志を継いで財団の活動に尽力しました。
ハナは大勢の前で話をするようなことは避ける人でしたが、いちど財団の懇親会で、自らマイクの前に立ったことがあります。それは、奨学生が「いつも奨学金を頂いて申し訳ありません。ありがとうございます」などと自己紹介の挨拶をしたときでした。ハナは、「お礼を言いたいのはこちらの方です。財団のお金を皆さん方のように一所懸命勉強する若い方々に使っていただいて、こちらこそ本当にうれしく思います」と語ったのでした。
(※写真は野村胡堂・ハナ夫妻)
ハナは大勢の前で話をするようなことは避ける人でしたが、いちど財団の懇親会で、自らマイクの前に立ったことがあります。それは、奨学生が「いつも奨学金を頂いて申し訳ありません。ありがとうございます」などと自己紹介の挨拶をしたときでした。ハナは、「お礼を言いたいのはこちらの方です。財団のお金を皆さん方のように一所懸命勉強する若い方々に使っていただいて、こちらこそ本当にうれしく思います」と語ったのでした。
(※写真は野村胡堂・ハナ夫妻)
略年譜
1882(明治15)年 | 10月15日、岩手県紫波郡大巻村(現在の紫波町)に生まれる。 本名は長一(おさかず)。 | |
1896(明治29)年 | 14歳 | 岩手県盛岡尋常中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。 |
1902(明治35)年 | 20歳 | 盛岡中学校を卒業して上京。 |
1904(明治37)年 | 22歳 | 第一高等学校(旧制)に入学。当時の校長は岩手出身の新渡戸稲造。 |
1907(明治40)年 | 25歳 | 東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)(仏法)に入学。 |
1910(明治43)年 | 28歳 | 橋本ハナと結婚。 父長四郎死去(享年54歳)。 |
1911(明治44)年 | 29歳 | 長女淳(あつ)誕生。このころ学費滞納により大学を除籍される。 |
1912(明治45)年 | 30歳 | 報知社(後の報知新聞社)に入社。 |
1913(大正2)年 | 31歳 | 長男一彦誕生。 |
1914(大正3)年 | 32歳 | 報知新聞の政治面の記事に野村胡堂のペンネームを使いはじめる。 |
1916(大正5)年 | 34歳 | 次女瓊子(けいこ)誕生。 |
1920(大正9)年 | 38歳 | 三女稔子(としこ)誕生。 |
1922(大正11)年 | 40歳 | このころ報知新聞に「あらえびす」の筆名による音楽関係の記事を執筆。 |
1927(昭和2)年 | 45歳 | 長女淳死去(享年17歳)。 |
1931(昭和6)年 | 49歳 | 『文藝春秋オール讀物号』に『銭形平次捕物控』の第一作「金色の處女」を発表。 |
1934(昭和9)年 | 52歳 | 東京帝国大学(美学専攻)在学中の長男一彦死去(享年21歳)。 |
1940(昭和15)年 | 58歳 | 次女松田瓊子死去(享年23歳)。『紫苑の園』などの小説を残す。 |
1942(昭和17)年 | 60歳 | 報知新聞を退社して執筆に専念。 |
1958(昭和33)年 | 76歳 | 第6回菊池寛賞を受賞。 |
1960(昭和35)年 | 78歳 | 紫綬褒章を受章。 |
1963(昭和38)年 | 80歳 | 野村学芸財団を設立。4月14日、肺炎のため死去。勲三等従四位瑞宝章を贈られる。 |
1968(昭和43)年 | 12月25日、ハナ死去。享年80歳。 |